チェンマイ報告
チャリティギャラリーの報告もしないうちに日々が過ぎてしまいますが、思うことが出来、少し書いてみたくなりました。
タイのチェンマイに江津高校美術講師時代の教え子の河野君が奥さんと一緒に住んでいて、陶芸とチェンマイ紹介の情報誌編集の仕事をしています。日本に帰るといつも立ち寄ってくれて、そのたびに遊びに来てくださいね、って言われていて、今回4日から11日までと関空閉鎖のため日が延び長旅になりましたが初めて東南アジアの旅をして来て感じたことを記してみようと思います。
チェンマイのカレン族という山岳民族の村で森の中で有機のコーヒー豆を栽培しているクイ君という青年のもとを訪ねる。
美しい自然、大きくて面白い形の幹、たくさんの楽しい形の葉、色も形も美しくて素敵な花々、真っ赤できれいな土、リス、いろんな色の無数の鶏とひよこ、人懐っこい犬、黒豚、牛、水牛、美しい田んぼ、手を伸ばせばすぐに食べられる果樹、木になる甘い豆、女たちは皆自分で織った色とりどりの布を腰に巻き付けている。家はみんな自分たちで建てる。
その暮らしは命を心地よく全うできるものに違いないと思われた。
しかしほとんどの家にはトヨタかニッサンの3000㏄クラスの荷台付きの大型車があり、カワサキかホンダのバイクがある。この車は家を建てるよりもお金がかかるかもしれないが、親戚中で共同で買うのだという。不思議な感じはしたけれど生きるということはそんなことかも知れない。
日本という国はこのような暮らしをしている人々からも便利さと引き換えに莫大なお金を得るのだ。
少し下りたところの道路に面した村ではよろずや的なところが何軒か連なっていて、村でとれた卵や、野菜、それに町から持ってこられた生活雑貨も置いてある。その中に味の素の袋がたくさん置いてあり、ちょっと悲しい気持ちになった。
でも、なんといってもチェンマイは市街地に下りてさえ自然が本当に豊かで、気候も過ごしやすく、ゆったり、長閑で豊かという言葉が似つかわしい場所だった。
同じタイでも首都のバンコクに行くと様子は一変した。金色と赤に輝く多くの大寺院、王宮、国王を讃嘆するたくさんの大肖像写真パネル、そして経済発展のシンボルとして林立するビル群、町にあふれる日本や韓国産の車、観光客からぼったくろうと路上に止まるたくさんの愛嬌のあるトゥクトゥク、ボコボコになっても使われ続ける鉄道列車、路線バス。3人、4人乗りもざらのバイクに乗る人々。
しかし一応整備された大通りから一歩路地に入る。またそうせずとも目に入る鉄道の線路脇に並ぶおびただしいバラック。首都の中心駅のエントランスロビーに日がな一日あふれる寄る辺なき人々。
この国の首都には資本主義の恩恵から全く切り離されたホームレス、物乞い、スラム街がいたるところにはみ出し隣り合わせで生きている。平日の昼間からじっとして座り続け、ただ生きているだけに見える人々のなんと多いことか。
ごく一部の金持ちに富のほとんどが集中し、多数の国民はなんとか職についてうまくいけば車を手にし、バイクに乗ることが出来る。しかし、目に焼き付いて離れないバラック街の人々のうつろな姿。この超格差社会、分断社会はきっと世界そのものなんだ、と気づかされる。
何が人を幸せにするのか。カレン族の自給自足社会は素晴らしい。でもそれは素晴らしい自然があってのことだし、彼らの生活も便利なモノ社会が入り込みさらに変わるだろう。その変質にはわれわれ日本人の余剰生産物が大きな役割を果たしている。
クイ君はコーヒー豆を栽培してちゃんと生活していた。地産地消のコーヒーだからぎりぎりそれが出来ている。でも私が日本で飲むコーヒー一杯、美味しく食べるバナナ一本の値段は本当に安い。その安い値段のいったいどれだけがコーヒー農家、バナナ農家にわたり、さらにそこで雇われている人にわたるのだろうか。
支配階級と被支配階級、そして奴隷制は古代から世界中に存在し、人間の本源的なものかも知れない。そして、生み出された富を少しでも多く自分たちのものにしようと争い、部族間の戦いがどんどん大きくなって国家間の戦争の歴史は繰り返され、いまだ終わらない。産業革命以降、工業製品の生産性はとどまることを知らず、IT革命も加わって、一定の富を手にする人々は過剰な便利さ、快適さ、モノ的豊かさを手にして、反自然となった結果、超ストレス社会の現代病に悩まされる。それでもとどまらない人間の欲望は温暖化を招いて、未曽有の気候変動に直面しているのに国家の指導者たちはいまだほとんど手を打つことが出来ない。中国とアメリカに代表される自己中心的国家が地球環境を悪化させ続けている。
しかし生産性が上がることは、悪いことだろうか、ITで便利になることは悪いことだろうか、美味しいものがたくさん食べられることは悪いことだろうか、たまに海外旅行に行けることは悪いことだろうか。
そうではないだろう。この世界の生産性と豊かさの質が悪いのだ。
私が思う帰結は自己中心性からの転換と物質的価値中心性からの転換の二つを実現することだ。
チェンマイに世界の旅行者が魅了されるのは、その自然の豊かさだけでなく、その豊かさと共生して生きる微笑みをたたえた人々がたくさん暮らしていることだ。
我々の享受する便利さはなくても美しい木々、花、葉 野鳥
動物たちから多くを受け取り心は満ちている。手で機をおり、家を村人総出で協力して建てる。そして直す。どの人の心にも仏性を宿すと考える仏教が厚くしみわたっているので手を合わせることが挨拶である。このような生活から我々は学び、世界を変えていくことはできないものだろうか。
美しい焼き物の肌は人の心を楽しく豊かな気持ちに変える魔法の力を持っている。手間のかかる美しい染めや手織りの布で作られた服を身にまとう心地よさ、織った人に思いをはせることはなんと素敵なことだろうか。違う土地に行ったとき、人は必ずその土地独特の料理を食べてみたいと思う。
どの国、土地にもその風土のなかで生まれた衣、農産物、料理、暮らしに使う道具、工芸品、そして住まい方がある。
それぞれの国、地域独自の生活文化は違うから人々は旅行に魅了されるのだ。
独自性と地産地消を面白がり、大切にしながらグローバルな交流、交易ができたらどんなにかいいのに、と思う。生産するサービスは、心の豊かさ、楽しさ、感動、健康を優先させてモノ豊か、便利、お金はそれを実現させる手助けだと位置づけると、幸せが多くの人に行きわたるのではないだろうか。
丸々と太り周りにはお構いなしで座席を独り占めし大声でしゃべり、笑顔も見せずスマホに熱中する中華家族はタイにも押し寄せていた。
この人たちだって、利他を説く仏教の思想に気づけば変わっていくこともできるだろう。
そんなことを色々考えながら、日本に帰って、日々のいまみや工房での仕事、暮らしを考えつつ生きていこう、と思うのである。